TinkerBell World
Since 1996/11/1
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PETER PAN
製作開始 1950年
公開 1953年2月5日
上映時間 77分
製作費 $4,000,000
全米興行収入 $87,404,651
(2001年物価変動調整後の興行収入$199,374,809)
備考 ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ25周年記念に長編クラシック14作目として製作
ピーター・パン
日本での公開 1955年3月
同時上映
「熊の楽園」(BEAR COUNTRY)
・1953年ディズニー映画
・1954年第26回アカデミー賞短編賞受

1963年
同時上映
「青きドナウ」(BORN TO SING)
1962年ディズニー映画
1976年3月
東宝チャンピオンまつり・ディズニーフェスティバル
同時上映
「ドナルド・ダックの人喰いザメ」
「チップとデールの怪獣をやっつけろ」
「ドナルド・ダックのライオン大騒動」
「ミッキー・マウスのがんばれ!サーカス」
「元祖天才バカボン」
「タイムボカン」
「勇者ライディーン」
1984年7月
同時上映
「眠れる森の美女」
1988年7月
同時上映
「眠れる森の美女」
「ミッキーの巨人退治」
※他にあるかもしれません
スタッフ
監督 HAMILTON LUSKE
CLYDE GERONIMI
WILFRED JACKSON
脚本 TED SEARS
ERDMAN PENNER
アニメーション監督 MILT KAHL ※(ピーター・パン)
FRANK THOMAS ※(キャプテン・フック)
WOLFGANG REITHERMAN ※
WARD KIMBALL ※
OLLIE JOHNSTON ※
MARC DAVIS ※(ティンカーベル)
ERIC LARSON ※
JOHN LOUNSBERY ※
LES CLARK ※
NORM FERGUSON
※はナイン・オールド・メン
特殊効果 UB IWERKS
音楽 OLIVER WALLACE
歌曲 SAMMY FAIN
SAMMY CAHN
OLIVER WALLACE
FRANK CHURCHILL
ERDMAN PENNER
WINSTON HIBLER
TED SEARS
編曲 EDWARD PLUMB
ボイスキャスト
ピーター・パン BOBBY DRISCOLL
ウェンディ KATHRYN BEAUMONT
キャプテン・フック HANS CONREID
スミー BILL THOMPSON
ダーリング婦人 HEATHER ANGEL
マイケル PAUL COLLINS
ジョン TOMMY LUSKE
インディアン・チーフ CANDY CANDIDO
挿入歌
The Second Star to the Right 右から2番目の星
You Can Fly ! You Can Fly ! You Can Fly ! きみもとべるよ!
APirate's Life 海賊のくらし
Never Smileata Crocodile ワニをひやかすな
Followingthe Leader リーダーにつづけ
What Made the Red Man Red ホワット・メイド・ザ・レッド・マン・レット
You Mother and Mine あなたと私のママ
The Elegant Captain Hook フック船長はエレガント
その他
スティーブン・スピルバーグ監督の「E.T.」を製作する際、モデルになったのが「ピーター・パン」でした

ティンカーベル

TinkerBell

ジェームズM.バリ氏オリジナルの劇でティンカー・ベルは、形がなく、ステージの外からの光線で、動きを表していました。その後、マーク・デービス氏によって妖精の女の子の形をあたえられたものの、バリー氏のつくったイメージとは違い、セクシーすぎると批判され、マリリン・モンローをモデルにした、と噂になったりもしました。しかし、ティンカー・ベルの本当のモデルは、アクションを担当した女優のマーガレット・ケリーでした。


マーク・デービス

Marc Davis 1913-2000

〜マーク・デービスのプロフィール〜
検索用語句 マークデービス マークデイビス
1913年3月30日、リリーとミルドレッド・デービスの一人息子としてカリフォルニア州ベイカーズフィールドに生まれました。父は石油産業に関係し石油を求めて広いアメリカ中をあちらこちらと移り住んだため、高校を卒業するまでに23回も転校しました。"ひとりぼっち"をまぎらわすため、絵を描いて自分を楽しませていたのですが、これが"絵描きの少年"として注目されることになりました。

カンザスシティー美術学校、サンフランシスコ・カリフォルニア芸術学校、ロサンゼルス・オティス美術学院、シュナード美術学校に学びましたが、美術学校に行くお金がなくなるとフレイシュハッカー動物園に行き動物のスケッチをしていました。

大恐慌のどん底でアメリカの労働者の4人に一人が失業という時代、ディズニー・スタジオの「アーティストを求む」の広告を見て1934年にスタジオを訪れます。どうしたミスからか"マーク"は"メリー"(女性)と勘違いされ「ミス・デービス」宛ての手紙に「当社は目下のところ、女性アーティストは採用しておりません」と通知されてしまいます。この誤解が解けたのは1年後のことで1935年12月2日、正式にディズニー・スタジオのスタッフとして迎えられました。

世界初の長編アニメーション「白雪姫」の姫を手がけたグリム・ナトウィックの助手につき白雪姫とこびとたちが踊るシーンを担当、これはみどころがあると先輩からすっかり認められました。1940年、「バンビ」のストーリー・ディヴェロップメントに当たります。たくさんの動物のスケッチをあたり一面にはりつけていたのがウォルトの目にとまり「これを描いたのは誰だい?まさに"森の住人"じゃないか」と絶賛されアニメーターに昇格。ウサギのとんすけとスカンクのフラワーを手がけます。

第二次世界大戦がはじまりスタジオが戦争協力を強いられた頃、スタジオが作った「空軍力の勝利」のキャラクター・デザインを手がけます。戦争が終わり最初に取り組んだのが「南部の唄」で、3匹の動物を"きわめて人間的"に描くことで大いに注目されました。

1947年、ドン・グラハムの依頼でキューナード美術学院の絵画学科で17年間、週に1回授業をする。教え子のアリス・イーステスは後にマーク・デービス夫人となりました。スタジオでは「こぐま物語」のアニメーター、「わが心にかくも愛しき」のアニメ部分のストーリー展開、「イカボードとトード氏」のアニメーターを経て、シンデレラからは作画監督となり、「不思議の国のアリス」「ピーター・パン」「眠れる森の美女」「101匹わんちゃん」を手がけることになります。

長編のみならず、短編のアニメーターとしても活躍、1945年の「グーフィーの猛獣狩り」「ドナルドの恐怖の一夜」の他、1950年代の短編スペシャル「小さな家」「メロディー」「プカドン交響曲」で持ち味を発揮しています。

1961年8月、スタジオをはなれ、ウォルトの個人会社、テーマパーク部門のWEDエンタプライズに移り、初期の誇るべきイマジニアとして新たなる才能を発揮します。すでにオープンしているディズニーランドの「ジャングルクルーズ」に「水浴びしている小ゾウ」と「サイに追いかけられ、命からがら木によじ登る探検家」のセットを増設。1964年のニューヨーク世界博覧会に出展した四つのアトラクションを手がけます。このなかで大成功したのが「イッツ・ア・スモールワールド」でした。ニューヨークから戻ると「カリブの海賊」を手がました。アリス婦人は「イッツ・ア・スモールワールド」「カリブの海賊」のコスチューム・デザインを担当しています。この後「カントリー・ベア・ジャンボリー」「ホーテッドマンション」などを製作。さらにウォルトが描いた未来都市プロジェクト、EPCOTセンターの建設にも参加しています。

1978年、退社後WDI(ウォルト・ディズニー・イマジニアリング)のコンサルタントを務めます。東京ディズニーランドのオープニングにあたっては早くから精力的、献身的にプロジェクトに参加。ウォルトが一度は訪れたいと思いながら実現できなかった日本で、1983年、みごとに開花しました。ウォルトディズニー社において大変名誉ある”ナイン・オールドメン”のうちの一人しとて選ばれ、1988年にマイケル・アイズナー、ロイ・ディズニー両氏によって、公式に"Disney Legend"のひとりとして発表されました。

1995年10月に東京ディズニーランドに来園しました。氏を一目見ようと訪れたゲストは開園前から長蛇の列となりました。

2000年1月12日、ロサンゼルス郊外のグレンデール病院で亡くなりました。86歳でした。

代表的な作品
<アニメーション・フィルム>
白雪姫(1937)
バンビ(1942)
空軍力の勝利(1943)
南部の唄(1946)
ファン・アンド・ファンシー・フリー(1947)
わが心にかくも愛しき(1949)
イカボードとトード氏(1949)
シンデレラ(1950)
不思議の国のアリス(1951)
ピーター・パン(1953)
眠れる森の美女(1959)
101匹わんちゃん(1961)

<東京ディズニーランド・アトラクション>
ジャングルクルーズ
魅惑のチキルーム
イッツ・ア・スモールワールド
カリブの海賊
ホーテッドマンション
カントリーベア・ジャンボリー(カントリーベア・シアター)

<キャラクター>
とんすけ
フラワー
シンデレラ
アリス
ティンカーベル
オーロラ姫
マレフィセント
クルエラ・デ・ビル


ウォルトとピーター・パン

ウォルト・ディズニーが8歳になった1910年、ディズニー一家はマーセリーンを後に、カンザス・シティに移りました。幼いウォルトが「ピーター・パン」の物語を知ったのはこの町でした。ブロードウェイで「ピーター・パン」の公演を成功させたモード・アダムズの一座がカンザスを訪れたのです。ウォルトは少年を主人公にした演劇に強く惹かれ、全財産であるブタの貯金箱をたたき割って入場券を手に入れて兄のロイと共に見に行きました。

その後、幼いディズニー兄弟は学校での劇で「ピーター・パン」を演って皆をあっといわせました。「ピーターを演らせたら私にかなうものはいませんでしたよ。かのモード・アダムズ以上に、私はリアリスティックにやってのけました。私はピューンと飛び上がり、観客の目の前に達した。後方ではロイが滑車装置で高く巻き上げてくれ、ともあれ好評を博したものです」。

こうした思い出をふまえて、ウォルトがアニメの「ピーター・パン」の製作を決意したのは1935年頃だといわれています。原作の権利はJ・バリの遺言により、ロンドンにある小児科の病院グレート・オーマンド・ホスピタルに寄贈されており、ディズニーはその病院との交渉を必要としました。アニメ化の権利を得たのは1939年、使用料は5000ポンド。他作品の製作、第二次世界大戦の勃発等の影響で、念願の製作にこがつけたのは1950年ことでした。

当時ウォルトは誇らしげに語っています。「サー・バリが今日もご存命ならば、ネバーランドのファンタジー・アドヴェンチャーを、なによりも真っ先に映画のために執筆されたでしょう。彼の精神と才能の特質を正当に表現できるのはアニメのみであります」。「ピーター・パン」完成の4年前の1949年、ストーリーボードを前にスタッフ会議が行われました。約60人が集合し、さまざまな意見が交わされました。冒頭で、ダーリング家の子どもたちがバリの本を読んでいるシーンを作り、実写で撮影しようという案なども出されたようです。

やがて経験を積んだ3人の監督、ハミルトン・ラスク、クライド・ジェロニミ、ウィルフレッド・ジャクソンに全権を任せることでアニメの製作がスタートしました。作画監督にはマーク・デービス、ミルト・カール、フランク・トーマスらナイン・オールド・メンの9人+ノーム・ファーガソンの10人。今振り返ると、まったくすごいメンバーで創っていたものです。そしてその頂点に立つウォルトは、各々のキャラクターを創り、特に強い魅力をもつヒーローに力を入れました。「ピーターは翼なしに飛べるんだ。永遠に12歳という若さが気持ちよく、成長することを拒否している。かれだけが"ないない島"(ネバーランドのこと)がどこにあるのか知っている少年なんだよ」と1952年に語っています。

また、背景チームも最高の仕事を残しています。ラルフ・ヒューレットら5人のアーティストは、ビッグ・ベンからネバーランドに至るまで、934枚の背景画を描き上げたのです。


写真はティンカーベルのモデルとなった女優、マーガレット・ケリーをスケッチするマーク・デービス


講談社ディズニーファン32号、33号、34号
ディズニーオフィシャルHP「ティンカーベルにあおう」    から引用、または抜粋